痛ましい事件、テロとも言える最悪の事件が起きました。メディアコンテンツを研究している身としては団長の思いです。様々なメディアやSNSでデマや憶測が流れていますが、思った事を綴ってみます。ショックを受けている方は、精神的に疲れるかもしれないのでしばらくしてからお読みいただけたらと思います。
京アニとは
日本アニメ業界のメッカ
おそらくネット上にはご存知の方は多いと思いますが。京アニは、手塚治虫と縁のある虫プロと縁のある由緒正しいアニメ製作会社で、日本のアニメ業界を昔から影で支えながら、2000年代以降は海外へ日本アニメを発信する起爆剤とも言える作品を次々と発表した、超重要なアニメのメッカとも言える会社です。
人材を使い捨てるビジネスモデルを展開する会社も多いアニメ業界中で、新人のクリエイターの教育や育成にも取り組みながら圧倒的クオリティのアニメ作りをする本当に素晴らしい会社でした。ジブリをはじめ不安定雇用で低賃金時間外労働は当たり前なアニメーターを、正規雇用方針でしっかり雇って育成してきた会社は京アニの他にあるかわかりません。
世界中の人の心を豊かにしてきたアトリエ
京アニの作品のみならず、京アニが関わった作品は「絵が綺麗」だと評され、響けユーフォなどといった作品では楽器のディティールや、楽器を演奏する人、コンクールに参加したことのある人にしかわからない細部までこだわった作画がされており、「神は細部に宿る」をそのままアニメに持ち込んだような作画でした。
そんな京アニは、世界中で日本のアニメを大流行させる引き金となった作品を数多く製作しており、世界中にファンのいるアニメ文化のまさしく発生源でした。今後どうなるかはわかりませんが、世界最高峰かつ世界でもっとも愛されるコンテンツを作り出す源(みなもと)が取り返しのつかない打撃を受けたことに変わりはありません。
最悪の文化破壊
今回の放火事件を文化遺産の破壊に等しいという人もいますが、これから生まれるであろういくつもの作品、それを楽しみにしていた人たちの夢が壊されたという点において、これは文化的なテロであり文化財の破壊や破損よりも残酷なことであると私は考えます。
そして何よりも、命を落としたアニメーターをはじめスタッフの方々は一人一人が本物の「職人」でした。役割は違えども、京アニのクオリティで一つのコンテンツを作るということは、その人でなくてはならない仕事を一生懸命こなしてやっと完成するというものです。
そうした職人や監督といった才能を結集して作り出す文化装置が破壊されたということ、そして多くの命が奪われたということ、どこから考え、感情に整理をつけて良いのか分からないほどの衝撃です。
事件への反応について
ここでは、ツイッターなどで見かける事件への反応について考えていきます。
「オタクっぽい」と報じた日刊スポーツ
記事は修正されていますが、日刊スポーツが犯人について「オタクっぽい」という表現をわざわざ用いた記事を出したことに反響がありました。私自身は日刊スポーツはそういった報じ方をする会社ですし、読者を意識した書き方だったのだと理解してますが、多くのクレームがあったようです。
確かに修正まえの記事を見ると、インタビューからの引用でもなくただステレオタイプの「オタクっぽい」という犯人像を作り上げたかったかのような記事で、これは反感を買うだろうなというものでした。
残念ながら、新聞社というのは読者層を意識して記事を書きますので、こういった表現がされることは予想していましたが、この無理のある記事には悪意を感じる人も多くいたことと推測されます。アニメファンの皆様でご立腹の方はいらっしゃるとは思いますが、新聞社というものはそういうもので、日刊スポーツはそういう会社なのだというのが現状です。
地下鉄サリン事件との比較
これは、社会的に非常に良くないことだと私は思います。震災と同様に被害というものの「数値化」にというものは百害あって一利なしです。
京アニ世代は特に、地下鉄サリン事件の記憶や知識のない人は多いです。地下鉄サリン事件は死者こそ少ないものの、何年にも渡り多くの人が後遺症に苦しみ、そして、オウム真理教によるテロであり殺人は、地下鉄サリン事件だけではありません。多くの人が洗脳されたり、一家全員が殺されたりといったことが事件が数年間でいくつも起こったのです。
事件というもの特に凶悪事件というものは比較して論じるべきではないと私は思います。絶対に良いことなんてありませんし、亡くなった人、残された遺族への冒涜です。地下鉄サリン事件がトレンドに上がり私は社会に危機感を覚えます。
震災や事件が数値化されわかりやすく理解され、コンテンツとして論じられ流のは堪え難い屈辱を与えるものであり、冒涜です。
犯人の安否と死刑
これについては非常に考えさせられます。テロ事件の犯人に対して「犯人には何も与えない。名前もだ。」としたニュージーランドの議会でのアーダーン首相の発言を思い出します。生きて事情聴取すれば自然と名前が明るみに出て社会に記憶されますが、アニメーションを裏で支えてきた名もない亡くなった人々は忘れられたままになるかもしれません。
もちろん、動機がなんなのか知りたいとは思いますが、どんな動機にせよ許されることではないし、あまりにも残酷で凶悪な事件のため動機なんか聞きたくないという人もいるでしょう。司法がどう判断するのかわかりませんが、精神疾患や責任能力を言い訳に罪に問われないなんて可能性も無きにしもあらずです(可能性は低いですが)。凶悪事件というのは常々、司法制度や人権というものを考えさせられます。
人権って誰のもの?
世の中にはいわゆる「人権屋さん」というのが存在します。事あるごとに人権を守ろうと言う人たちです。別に主義主張に関しては何も言いませんが、犯人のこれまでの経歴や逮捕歴といったものを見ると、人権を叫び尊重させることはこういった事件に少なからず関連があると私は思います。
犯罪者の人権はもちろん重要です。更生させるのも社会と国の重要な役割です。しかし、本当にそうなんでしょうか?ともすると危険な思想になってしまいますが、保釈中の人物が逃走したりといった世の中、前科のある人間による今回の犯行はどうにかできなかったのでしょうか?これから増えていくのではないでしょうか?
人権屋さんが戦い勝ち取ってきた権利は、真っ当に生きる人たちの命を傷つけているのではないでしょうか?自らの主義主張がもたらす社会的な影響について考えたことはあるのでしょうか?ということを私は国に、司法に問いたいです。
死刑確定と言われるけど
死刑確定と実は精神疾患と死刑に関しては世代によって考え方が大きく異なると思います。というのも、正解的に精神疾患には「精神外科」としての暗い歴史があるからです。
精神的に以上のある人間は社会から隔離させなければいけない。という論調は戦後しばらくたってもかなり強い意見でしたし、今でもそう考える人は多くありません。しかし、その時代に精神外科として行われていた措置は想像を超えるほど残酷なものです。大脳の一部を切除することで性格を大人しくさせるなどといったことは世界的に行われていた時代もつい数十年前のことです。
そうした中で、精神的な要素と社会生活、そして司法の判断というものが長い年月を重ねて議論されてきたわけです。今回の犯人がどういった人物かはわかりません、しかしながら今後の社会の安全と安心に関して考える一つのきっかけとして、今回の事件はなんらかの影響を世論や社会に与えるものと思われます。
ショックを受けている方へ
こんな記事を投稿していていうのもおかしいのですが、今回の事件は大きなショックが日本中を襲いました。SNSをひらけば多くの人の嘆きや悲しみ、怒りだけでなく、デマや不愉快な投稿を目にします。自分のものでない感情と出会うこと、向き合うことはかなりのエネルギーを消費しますし、何らかの思いを吐露することは一時的には楽になるかもしれませんが、他の誰かを疲れさせるだけかもしれません。
今なお何が真実かわかりませんし、今後も悲しみは続くでしょう。だからこそ、少し情報から離れること、テレビやニュースは話半分で受け取ることといった精神的な自己防衛が必要です。